櫻 井 錠 二 と 東 京 化 学 会 | ||||
日本化学会歴代会長在任期間 | 「日本の化学百年史」 日本化学会編 東京化学同人発行(1978)より |
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年度 | 工業化学会 | 東京化学会 | 備 考 | |
1878 | 明治 11年 | 久 原 躬 弦 | 「化学会」旧東京大学法・理・文3学部教員控室で第1回集会を開く。メンバーは理学部化学科の卒業生在学生24名。櫻井錠二は留学中である。化学会の誕生には当時化学科の英人教師、R.W.Atkinsonの指導があったようだ。学会の重要な仕事は会員に研究成果の発表と意見交換、討論の場を提供し、常会、年会の開催、会誌の発行であった。会誌の創刊は80年で、会の記事を揚げ演説の草稿を載す。約3ヶ月ごとに1冊を出版する。会員の投票により掲載論説を決す。と規定された。第1帙第1冊には「化学命名論」甲賀宜政で当時、諸化学書の訳語、命名法の乱雑不統一等正確化と統一が急務であると説いている。その後化学訳語委員を設け何度も検討を重ね「化学訳語集」を出版するが、一般会員から異論が出る。重要な一つに訳語委員が ”Chemistry"を ”化学”としたのに”舍密学”(幕末から使われていたオランダ語の ”Chemie"の訳語”セイミ”)を提唱する根強い反論に合い議論の末、委員会で決定した訳語及び命名法を一定会員一般に使用する案は廃案になる。91年の「化学訳語集」には約2000語が記載されているが、両方の訳語が掲載され、また不備な点が多いとある。 | |
1879 | 12 前期 |
磯 野 徳三郎 | ||
12 後期 |
高 山 甚太郎 | |||
1880 | 13 前期 |
磯 野 徳三郎 | ||
13 後期 |
中 沢 岩 太 | |||
1881〜82 | 14〜15 | 松 井 直 吉 | 櫻井錠二は81年・英国留学から帰国直後東京帝大講師、入会はこの時期と思われる。翌年教授になる。83年・化学会会長の記録があるにも拘わらず、88年・東京化学会正員之証(現石川県立歴史博物館蔵)の存在するのは一見不自然であるが、それは会則の改正があり会員を区分し「化学または化学と密接に関係する学科卒業者」を正会員・「化学への篤志者」を準会員とする。<廣田鋼蔵著・明治の化学者>に詳しい。この時期に発行されたようだ。それまで会員証はなかったのであろうか。会誌第15帙から講義欄が登場し、櫻井錠二の「希薄溶液の性質」を皮切りに以降多数講義が掲載されるようになった。会誌のページ数も96年には1000頁になった。量的、質的にも世界的水準に達した論文が発表された。例を揚げると第5帙の「漆の化学的研究」吉田彦六。第10帙「苦参中塩基成分実験説」長井長義。第11帙「オキシアミドサルフォン酸の塩類並にその次亜塩素酸に変ずること」一連の論文、Divers,垪和為昌。第13・14帙「漢薬麻黄成分研究成績」長井長義。第17帙「日本産テルリヤムの原子量」九重真澄。第18帙「アミドサルフォン酸の越暦伝導」櫻井錠二。第20帙「膨張計を用いて加水分解の速度を測定する方法」池田菊苗。第22帙「葡萄糖の倍施光に就いて」大幸勇吉。第23帙「副腎の主成分アドレナリンに就いて」高峰譲吉などがある。 | |
1883〜85 | 16〜18 | 櫻 井 錠 二 | ||
1886〜92 | 19〜25 | 長 井 長 義 | ||
1893 | 26 | 松 井 直 吉 | ||
1894 〜 97 |
27〜30 | 高 松 豊 吉 | ||
1898 | 31 | 榎 本 武 揚 | 久 原 躬 弦 | 「化学訳語集」(91年発行)後、会は改正増補と命名法一定化への企画を立て新訳語委員を委嘱し作業を進めるが紛糾し櫻井錠二ら10名一同委員辞退、高松会長も辞任。訳語事業は一時暗礁にのりあげてしまった。会としての訳語集刊行が不可能になった為1900年高松、櫻井は有志とはかり会の了解を得て個人で「化学語彙」を出版する |
1899 | 32 | 渡 辺 洪 基 | 松 井 直 吉 | 国際原子量委員会 ドイツ化学会は正しい国際的原子量表の作製および発行について諸国の化学会、関連諸学会へ呼びかけ、我国にも要請があり、「原子量の基準として酸素を採用すること。また原子量値には有意の正確な数字のみを記すこと」に、日本薬学会、日本農学会からも賛同があったので原子量委員として櫻井錠二、池田菊苗に依嘱し、ドイツ化学会へ回答した。 |
1900 | 33 | 榎 本 武 揚 | 松 井 直 吉 | 万国応用化学会議 第4回万国応用会議がパリで開かれた。石川巌、および守屋物四郎が出席した。(我国最初の化学者が出席した国際会議) 第5回会議は1903年ベルリンで開催、鈴木梅太郎、吉川亀次郎が出席、以降毎年代表者をおくり論文を提出している。 |
1901 | 34 | 山 尾 庸 三 | 松 井 直 吉 | |
1902 | 35 |
大 鳥 圭 介 | 松 井 直 吉 | |
1903 | 36 | 榎 本 武 揚 | 櫻 井 錠 二 | 創立25年記念会・東京帝国大学構内集会所で文部大臣 菊池大麓、東京学士会院院長 加藤弘之、東京帝国大学総長 山川健二郎、その他の来賓、化学会会員41名が参列し、櫻井錠二会長の開会の辞で始まり、 ○三つの記念講演が行われた。 櫻井錠二「本会創立以来の沿革」。 池田菊苗「最近25年間本邦化学の発達」。 高松豊吉「最近25年間における化学全般の進歩」 ○名誉会員推薦の実施 R.W.Atkinson, E.Divers, O.Kellner, O.Loew, の4氏 当日の晩餐会のスピーチで櫻井は「もしこの4氏の熱心なる学術研究の奨励なかりせば本邦化学が今日の如く健全に発達すべからざりしこと余の確信するところにして」と功績を感謝している。Loew氏を除く3氏は母国に帰国していたが「3氏が再来朝せられて、その播きたる種子の成木して果実を結べる有様を目撃さるるの機会あらんことを余の切望するところなり」と述べた。席上Loew氏は「この国に於いて数百年、否数千年に遡る文化がつとにこの進歩の下地をなすに非ずんば、外来の教師いかに努力すといえども将た何をか成し得んや」と謝辞の中で述べている。学術教育黎明期に、すべて外人指導者に頼らなければならなっかた化学は成長し、諸外国と対等に討論する実力と自身を身につけてきたことを物語っているようだ。化学会歴史の最初の四半世紀前半を基礎作りの時代とすると後半を成人の時期といえる。と自身に満ちた言が記載されている。 |
1904 | 37 | 大 鳥 圭 介 | 櫻 井 錠 二 | |
1905 | 38 | 山 尾 庸 三 | 松 井 直 吉 | |
1906 | 39 | 榎 本 武 揚 | 高 山 甚太郎 | |
1907 | 40 | 大 鳥 圭 介 | 田 原 良 純 | 櫻井化学研究奨励資金創設。東京帝大在職25年の祝賀式の醵出金を元に、毎年審査委員会の審議に基づき優秀な研究に対し、褒賞の授与及び研究費の補助を行う化学会初の表彰制度である。 |
1908 | 41 | 榎 本 武 揚 |
垪 和 爲 昌 | |
1909 | 42 | 高 山 甚太郎 | 櫻 井 錠 二 |
万国応用化学会議(第9回会議・ロンドン)物理学化学及び工学的恒数数値の収集刊行目的で設置、大幸勇吉博士が参加する。 |
1910 | 43 | 高 松 豊 吉 |
櫻 井 錠 二 | 第1回櫻井賞は小川正孝の「新元素化合物の研究」に与えられた。日本人最初の新元素(ニッポニウム)発見でW.Ramsayなど世界の化学者の賛同を得たもので受賞は当然であったが、後に誤りの発見であったことは残念である。 |
1911 | 44 | 高 山 甚太郎 | 高 松 豊 吉 |
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1912 | 45 | 高 松 豊 吉 | 櫻 井 錠 二 | 万国化学会連合会 (International Association Chemical Societies) 1911年英・仏・独の代表がパリに創立の会議を開いたのに始まる。東京化学会は第2回のベルリン会議(1912)に加入し、連合会の評議会に長井長義、櫻井錠二、高松豊吉を代表としておくった。 |
1913 | 大正 2 | 高 松 豊 吉 | 池 田 菊 苗 | |
1914 | 3 | 河喜多 能 逹 | 田 原 良 純 | |
1915 | 4 | 河喜多 能 逹 | 櫻 井 錠 二 | |
1916 | 5 | 河喜多 能 逹 | 鈴 木 梅太郎 | |
1917 | 6 | 鴨 居 武 | 井 上 仁 吉 | |
1918 | 7 | 鴨 居 武 | 吉 武 栄之進 | |
1919 | 8 | 小 寺 房次郎 | 松 原 行 一 | |
1920 | 9 | 小 寺 房次郎 | 亀 高 徳 平 | |
1921 | 10 | 佐 伯 勝太郎 | 片 山 正 夫 | 日本化学会と改称 |
1922 | 11 | 佐 伯 勝太郎 | 片 山 正 夫 | |
1923 | 12 | 矢 野 道 也 | 麻 生 慶次郎 | |
1924 | 13 | 田 中 芳 雄 | 大 幸 勇 吉 | |
1925 | 14 | 藤 野 懿 造 | 柴 田 雄 次 | 欧文会誌の創刊 池田菊苗の功績記念還暦祝賀の醵出金を化学会に寄附された「池田資金」と決定された。 編集の主任委員に鮫島実三郎氏が委嘱された。 26年から”Bulletin of the Chemical Society of Japan" が毎月発行され、自国の雑誌で研究成果を世界の学界に問うことが出来る画期的な発展といえる。以来外国の論文著書に本邦の業績が引用されるようになった意義は大きい。 |
1926 | 15 | 小 林 久 平 | 柴 田 雄 次 |
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1927 | 昭和 2 | 大 島 義 清 |
近 重 真 澄 | |
1928 | 3 | 水 田 政 吉 | 高 松 豊 吉 | 創立50年記念式典開催 記念講演 高松豊吉「本邦における染料工業の起源及び発達」。 櫻井錠二「本邦における化学の発達」。近重真澄「金属の化学」。 真島利行「最近25年間における本邦有機化学研究の進歩」。 片山正夫「有極性化合物に就いて」。 研究発表70件、参加会員331名、総会員数1400名余り記念事業として「日本化学会誌報文総目次並索引」 (第1〜48帙)を第49帙付録として発行。高松豊吉・櫻井錠二共編「化学語彙」の著作権を譲渡し、化学会編として増訂第4版を刊行する。 |
1929 | 4 | 山 村 鋭 吉 | 菅 沼 市 蔵 | |
1930 | 5 | 西 川 虎 吉 | 小 川 正 孝 田 丸 節 郎 |
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1931 | 6 | 西 川 虎 吉 | 飯 森 里 安 | |
1932 | 7 | 荘 司 市太郎 | 松 井 元 興 | |
1933 | 8 | 井 上 仁 吉 | 鈴 木 庸 生 | |
1934 | 9 | 松 井 元太郎 | 真 島 利 行 | |
1935 | 10 | 厚 木 勝 基 | 鮫 島 実三郎 | |
1936 | 11 | 三 角 愛 三 | 小 林 松 助 | |
1937 | 12 | 中 沢 良 夫 | 久保田 勉之助 | |
1938 | 13 | 亀 山 直 人 | 小 松 茂 | |
1939 | 14 | 喜 多 源 逸 | 加 福 均 三 | |
1940 | 15 | 黒 田 泰 三 | 田 所 哲太郎 | |
1941 | 16 | 鉛 市太郎 | 柴 田 雄 次 | |
1942 | 17 | 荘 原 和 作 | 真 島 利 行 | |
1943 | 18 | 小 栗 捨 蔵 | 武 原 熊 吉 | |
1944 | 19 | 牧 鋭 夫 | 松 浦 新之助 | |
1945 | 20 | 井 上 春 成 | 山 口 与 平 | |
1946 | 21 | 内 田 俊 一 | 木 村 健二郎 | |
1947 | 22 | 石 川 一 郎 | 堀 場 信 吉 | |
1948 | 23 | 石 川 一 郎 | 工業化学会・日本化学会が合同 新しい日本化学会の誕生 |
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1949 | 24 | 柴 田 雄 次 | ||
1950 | 25 | 喜 多 源 逸 | ||
1951 | 26 | 亀 山 直 人 | ||
1952 | 27 | 亀 山 直 人 | ||
1953 | 28 | 野 津 竜三郎 | ||
1954 | 29 | 原 竜三郎 | ||
1955 | 30 | 鮫 島 実三郎 | ||
1956 | 31 | 井 上 春 成 | ||
1957 | 32 | 永 井 雄三郎 | ||
1958 | 33 | 小 竹 無二雄 | ||
1959 | 34 | 小 竹 無二雄 | ||
1960 | 35 | 永 井 彰一郎 | ||
1961 | 36 | 水 島 三一郎 | ||
1962 | 37 | 安 藤 豊 禄 | ||
1963 | 38 | 仁 田 勇 | ||
1964 | 39 | 内 田 俊 一 | ||
1965 | 40 | 木 村 健二郎 | ||
1966 | 41 | 桑 田 勉 | ||
1967 | 42 | 杉野目 晴 貞 | ||
1968 | 43 | 桜 田 一 郎 | ||
1969 | 44 | 赤 堀 四 郎 | ||
1970 | 45 | 大 山 義 年 | ||
1971 | 46 | 森 野 米 三 | ||
1972 | 47 | 児 玉 信次郎 | ||
1973 | 48 | 堀 尾 正 雄 | ||
1974 | 49 | 赤 松 秀 雄 | ||
1975 | 50 | 野 副 鉄 男 | ||
1976 | 51 | 井 本 稔 | ||
1977 | 52 | 江 上 不二夫 | 以降省略 |